経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より
複数の大手日本企業の役員・管理職を対象に、ありたい姿を描き、それに向けて自組織の文化をデザインするワークショップを行った時のことです。いずれの企業でも同じ傾向が見られました。
それは、「ありたい姿」を描くワークショップであるにもかかわらず、「問題の分析」が始まることです。「忙し過ぎて成長実感がない」「学習力が足りない」といった現状の問題点を探し出し、そこに意識を向けるのです。
未来の価値は、このような現状の問題解決からは出てきません。経営学者のピーター・ドラッカー氏はこう言います。「問題の解決によって得られるものは、通常の状態に戻すことだけである。せいぜい成果を上げる能力に対する妨げを取り除くだけである。成果そのものは、機会の開拓によってのみ、得ることができる」(※)。
※『創造する経営者(ドラッカー名著集6)』(ピーター・ドラッカー著、上田 惇生訳/ダイヤモンド社)
組織のリーダーがなぜ、ありたい姿を考えられないのか。長年の仕事人生で「現状の問題分析と解決=仕事」という価値観が沁み込んでしまったのかもしれません。しかし根本的な要因は、人間の情動(無意識の領域を含む感情)にあるように思います。
世界的な神経科学者のヤーク・パンクセップ氏は、動物の脳深部を刺激して反応を見る実験を通して、人間を含む動物の基本的な情動を7つに分類しています(下の図)。このうち、最も不確実性に積極的に関与する情動が「SEEKING(探索)」です。未知の領域に好奇心を持ち、リスクがあっても探索する行動につながります。ワクワクした感じをつくる脳神経伝達物質であるドーパミンが介在するとわかっています。
■ 動物の基本情動の分類(概要)
神経科学者ヤーク・パンクセップ氏による分類を示した(出所:『意識はどこから生まれてくるのか』(マーク・ソームズ著、岸本寛史・佐渡忠洋訳/青土社))
この情動を強く発動させた種である人間が、進化の過程で繁栄してきたと考えられます。不確実な環境で価値を創造できる組織にするには、一言で言うと「人のSEEKING情動を刺激する」工夫が必要です。
先日、ある企業の部長の方々とワークショップをする機会がありました。「会社と事業部のビジョン・ミッションは」という質問に、ある参加者はこう答えました。「依頼された案件を期限内に処理するのが我々の仕事です。限られた人数で効率よく済ませるのが肝心です」。
あらためて「未来に向けては、どのようなビジョンを描いていますか」と聞くと、不思議そうな表情です。社外の人間である私に丁寧に接してはくれますが、「来た依頼をさばくのが重要で、そんな遠い先の絵空事を考えている暇はないのだが......」という気持ちがにじみ出ていました。
SEEKINGの情動は、「こうなりたい」というビジョンやありたい姿によって刺激されます。しかし多くの職場では日頃、それがまったく意識されていません。ビジョンなどは会社が対外的に掲げる標語で、普段の仕事には関係ないととらえているのかもしれません。ビジョンが意識の内になく、降ってきた仕事をこなすのは、より高い価値を生む意識をなおざりにすることにほかなりません。社員が真面目に仕事をしているのに業績が下降線をたどる恐ろしさの本質は、ここにあるのではないでしょうか。
とはいえ、ありたい姿や創造性などと言っていられない職場もあると思うかもしれません。
一般に創造性から最も遠いと思われている職場の一つに、コールセンターがあります。カードの支払いが遅れた顧客に電話で対応する業務を担う、当社のコールセンターの実例を紹介します。近年、未払いの対応に追われ、かかってきた電話を受け切れず、余裕がないため接客の質も向上しない負のスパイラルに陥っていました。ひたすら電話で応対する毎日に疲弊し、職場は負の情動に覆われていたのです。
この組織の部門長は、2023年、役員・管理職向けの「レジリエンスプログラム」に参加しました。当初は、丸井グループがめざす「フロー状態」について聞くと「理想はわかりますが、うちの職場は業務内容的にフローに入るのは難しいと思います」と話していました。しかし、プログラムへの参加を機に時間を取って職場の社員の思いを聞くと、「このままで良いとは思わない」という趣旨の意見が多く聞かれたのです。
そこで、部門長は呼びかけました。「では丸井グループのビジョンに照らして、私たちはどうありたいのか、真剣に考えてみませんか」。思いがけない呼びかけに、10人ほどの社員が自発的に手を挙げました。ただ支払いを催促したり問い合わせに表面的に答えたりするのではなく、心の深いところでお客さまに寄り添いたいと、ありたい姿が話し合われました。接客の意識を変え、スキルを高めるプロジェクトが始動し、「コールセンター・レボリューション(変革)」が合言葉になったのです。
プロジェクトチームが研修を企画すると、初回にもかかわらず61人が手を挙げて参加を表明しました。研修では、「要望に対応する」意識から「傾聴し、提案する」意識へどうやって変革していくか、具体的な方法について皆で話し合います。
たとえば、「仕事が忙しくて払いに行けない」と言う顧客にはいつ払えるかをただ聞くのでなく、思いを傾聴して「お金を使い過ぎた......」と困っている顧客の本音に寄り添い、少額入金の選択肢を提案して一緒に対応を考える、といった具合です。
初回の受講者が「伝道師」となって研修を広げ、最終的に200人を超えるすべてのオペレーターが参加しました。すると、「やっと自分たちがやりたいことにスポットライトが当たった」という声が上がるようになりました。主催メンバーの中には「現場が変わっていくのを感じます。生みの苦しみはありましたが、仕事に喜びや楽しさを感じるようになりました」と、フロー状態のように活動する人も出てきたそうです。
社員の情動が、「RAGE(いら立ち)」から「SEEKING(探索)」に徐々に変化していったのです。お客さまとの信頼関係を深め、個別の状況にもっとも合うと思われる支払い方法を提案し、受け入れていただいた件数は1年間で約20倍に増えました。当社の創業の理念である「信用はお客様と共につくるもの」を体現し、未来の価値創造につなげたのです。このプロジェクトは2024年度も自発的に継続するそうです。
どんな職場、どんな業務にも「こうありたい」という夢と希望があります。それに向かって可能性を広げるからこそ、ステークホルダーとの信頼関係が深まり、結果として成果や業績につながるのではないでしょうか。