Well-being
2025.1.7

「公と私」の二項対立を乗り越える

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    企業の価値創造ストーリーに基づく独自指標にこそ、その企業の特色や価値観が表れる。さまざまな二項対立を乗り越えるための当社の取り組みと、独自指標を紹介する。

    人的資本の情報開示が進む中、注目されているのが働く人のエンゲージメントです。大きくわけて「従業員エンゲージメント」と「ワークエンゲージメント」があります。前者は「会社や組織の理念に共感し、貢献意欲を持っている状態」、後者は「仕事に対するポジティブな態度や心理状態」を表します。

    これらの概念は重要ですが、働く人の健康に携わる産業医を長年務めてきた私の願いは、その先にあります。エンゲージメントは「会社・組織・仕事」に軸足が置かれていますが、私が軸足を置きたいのは、働く人自身です。玄関に「わたし」を置き去りにして出社しなくてよい世界。自分の強みや好きなことを活かして全人的に挑戦し、創造性を発揮できる世界。別の言い方をすると、仕事から生きている実感や喜びを得られるような世界をつくりたいのです。

    「ワークライフバランス」という言葉に、私は違和感を覚えてきました。なぜ、仕事を除いた時間を「ライフ(人生・生活)」と呼ぶのだろうかと。一般に1日8時間ある仕事の時間が自分らしい人生の時間でないとしたら、人は本当の意味で健康(=身体や精神だけでなく社会的にもウェルビーイングな状態)になれないのではないでしょうか。

    丸井グループのビジョンの肝は、「二項対立を乗り越える」という言葉です。人が働くという行為においても、「公」と「私」の二項対立を乗り越えたい。そして、社員を含むステークホルダーの「利益」と「しあわせ」の二項対立を乗り越えたいのです。

    「好き」を応援するコンクール

    この価値観を体現する、丸井グループの全社を挙げた取り組みの一つが「好きを応援するコンクール」です。2024年3月に第1回が開催されました。これは、社員が「個人的に好きなこと」をそのまま仕事にするコンクールです。自分がハマっている趣味やいわゆる「推し」の活動を、「エポスカード(クレジットカード)」の事業として手挙げ方式で提案するものです。審査委員長は社長、審査員は全社外取締役とコンクールを視聴する社員全員です。

    新しい企画なので、どのくらいの応募があるかは未知数でした。しかしフタを開けてみると全92チーム、108人から応募があり、そのうち11チームが本選に進みました。

    コンクール当日は、「サウナにハマって家選びすらもサウナが基準」「地域のサッカーチームを熱狂的に応援」「好きなカードゲームに没入」「K-POPアイドルのファンクラブ会長をしている」─など、自分の「推し」や「好き」について語る熱いプレゼンがくり広げられました。博物館の魅力を、大声で叫んだ人もいます。自らの熱中領域を語る姿からは、何か本当のその人自身がにじみ出ていて迫力がありました。

    実際、社員の「好き」がビジネスになる事例が複数生まれています。例えば、「とくびぐみエポスカード」は、個人の買い物が文化財を守るという社会貢献につながる初めてのクレジットカードです。新規入会1件につき1000円が丸井から徳川美術館へ寄付され、個人でも買い物でたまったポイントを徳川美術館に寄付できます。これらのお金が文化財の保全や美術館の運営に使われます。

    徳川美術館は多くの歴史的な名刀を所有する美術館で、この事業は「刀剣好き」の女性社員3人による提案から生まれました。社員の「好き」は、お客さまの「好き」でもあります。この美術館との協業から生まれた「とくびぐみグッズ」やフェスなどのイベントは好評を博し、収益につながっています。

    自分が好きな対象を応援したい一心でなされるビジネス提案は、その熱量の高さゆえに人を巻き込む力が大きく、多少の困難があっても乗り越える力が強いのも特徴です。とくびぐみエポスカードのケースでも「公」と「私」が統合した提案によって、「しあわせ」と「利益」が統合できたのです。

    「フロー社員比率」をKPIに

    自分の個性や強みを活かして挑戦し、創造性を発揮できる状態が社員のウェルビーイングであり、そうした企業文化から価値が創造される。そう考える丸井グループでは、どのようなウェルビーイング指標を用いているのか。

    まず行動KPIとして、「打席に立った回数/試行回数」を置いています(下の図)。自ら"打席"に立ってバットを振り、失敗してもそこから学びを得て次の挑戦に活かす行動を後押しするためです。そして、「自分が職場で尊重されていると感じる人の割合」「強みを活かして挑戦している人の割合」「フロー社員比率」というKPIを見ています。

    ■ めざす企業文化に向けた丸井グループ独自のウェルビーイング指標

    丸井グループは企業文化変革を価値創造の鍵と考え、独自指標を設けてさまざまな施策を実施している。このほか、比較可能な指標としてワークエンゲージメントなどの数値もウェブサイトで公開している
    (出所:丸井グループ)

    フロー状態とは、「全人的に行為に没入している時に感じる包括的感覚(※)」です。仕事をする時に「わたし」を置き去りにしていては、とても全人的に行為に没入することなどできないでしょう。自己目的的、つまり自分がやりたいからやる状態もフローの特徴です。フローは「最適経験」とも呼ばれ、最高のパフォーマンスが発揮されると同時に、自己信頼感が増すなど人の精神の健全な発達を促進するとわかっています。当社が独自に分析したところ、2023年のフロー社員比率は42%。これを30年までに60%に高めます。

    人的資本に関して開示が義務化された項目も重要ですが、企業の価値創造の文脈に基づく独自指標にこそ、その企業の特色や価値観が表れると思います。各企業が価値創造の文脈を熟考し、それを色濃く表した人的資本の独自指標が積極的に開示され、対話を重ねる社会になれば、働く人のウェルビーイングはもっと向上するのではないでしょうか。

    (※)『楽しみの社会学』(M. チクセントミハイ著・今村浩明訳、新思索社)

    この記事をシェア