Well-being
2024.12.5

「主観的ウェルビーイング」の時代へ

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    働く人のウェルビーイングをどうとらえるか、その価値観は変化しつつある。医師と企業の実務家として携わってきた立場から、3つの変化を提示する。

    1.「客観」から「主観」へ

    近年、ウェルビーイングの研究では、しあわせについて人が主観的にどう感じるかを評価する「主観的ウェルビーイング指標」が重視されています。社員が自分の意欲を自己評価したアンケート結果を役員報酬に連動させるなど、企業でも主観的ウェルビーイングが重要指標として認識されつつあります。従来は、経済状況などの社会的指標や生理学的指標といった、個人の主観とは別の「客観的ウェルビーイング指標」が重視されてきました(下の図)。

    GDP(国内総生産)は国民の幸せ実感を反映していない問題から、近年はGDW(国内総充実)という主観的指標が国内外で提唱されている


    目的に応じてどちらも見る必要がありますが、主観的指標が注目される理由は、経済が成熟する中で「物質的な豊かさ」よりも「実感としての心の豊かさ」が重視されるようになったためと考えられます。

    モノからコトへと言われ始めたのは1990年代、今から30年も昔です。しかし企業で活動する実務家として、主観的ウェルビーイング指標が人々に受け入れられるようになったのは、ほんのここ数年だと感じます。

    約7年前、丸井グループのWell-being推進プロジェクトで私がワークエンゲージメントの全社データを示した時、ある参加者は言いました。「これは個人の主観的な回答ですよね。もっと客観的な指標はないのでしょうか」。当時は、さまざまな場で聞かれた意見でした。脈拍や唾液検査などでストレス度合いを測るサービスを調べたこともありますが、取り組みたいのはストレス軽減というよりも働く喜びの向上です。

    もっと根本的な疑問もありました。しあわせとは人間の主観そのものなのに、なぜ主観的調査ではいけないのだろうかと。恣意的な回答があったとしても、それはその人なりの意思表明です。この30年間を経てようやく、しあわせの測り方に関する人々の認識が「心のことは、心に聴け」へと変化してきたように思います。

    主観的ウェルビーイングの一要素であるポジティブ感情は、人の創造性にも影響を与えると多くの研究で示唆されており、人間の主観は企業経営にとっても重要といえます。

    2.「統計」から「個」へ

    人間の主観の軽視は、ほかの多くの研究分野でも見られました。世界的な神経学者で医師のオリバー・サックス氏は、80年代に発行した著書にこう書いています。「神経心理学は、古典的な神経学と同様に、完全に客観的であることをめざしており、その偉大な力、その進歩はここに由来している。しかし生物、特に人間は、まず第一に能動的であり、客体ではなく主体である。排除されているのはまさにこの主体、生きている『わたし』である。神経心理学は立派なものだが、『こころ』を排除している」。

    当時の科学の主流は人の心をコンピューターのようにとらえ、その入力と出力に焦点を当てる考え方でした。〇〇の刺激を与える(入力する)と、人の心では△△という情報処理が行われ、××という反応(出力)をする─といった具合です。

    サックス氏は、個別の患者の主観的な感情や経過を真剣に受けとめた医師でした。彼は意識障害とされていた患者と密に向き合い、実験用医薬品だったL-ドーパを用いて彼らを覚醒させた実例を、著書『レナードの朝』(早川書房)にまとめました。この作品は映画化もされています。その後、サックス氏は『妻を帽子とまちがえた男』(同)を出版。これは神経の障害について患者の一人称の視点から啓発的な洞察を与える、一連の症例研究です。

    臨床医学ではもともと、個別の患者の症例研究を大事にしてきました。例えば、過去に私が学会で発表したテーマ「シェーグレン症候群に伴う間質性肺炎に発症した悪性リンパ腫の一例(2001年)」のように、「〇〇が××だった一例」というのが学会報告のパターンです。私の仕事人生は、病院で個別の患者と向き合い、その経過に寄り添うことから始まりました。

    一方、働く人の健康を扱う産業保健領域の学会では、集団分析に基づく報告がほとんどです。「業種別のデータ分析」や「組織で〇〇の介入を実施すると、××の効果が得られる」といった内容です。私も企業の産業医になるとすぐにこうした考え方に慣れ、例えば「組織理念教育の実施が組織心理・行動に与える効果(09年)」を学会で発表しました。産業保健は医師と患者の1対1の構造ではなく、人が働く職場環境のような複雑性の高い世界を扱う社会医学です。そのため統計データや集団へのアプローチは重要です。

    ただ、同じ環境で飼育されたネズミに刺激を与えて反応を比較するのとは異なり、個人、業種、企業文化とそこで育まれる社員の主観や価値観の違いは、極めて大きなものです。

    個別のストレスのとらえ方、つまり人の主観の違いによって死亡率が増えたり、逆に寿命が延びたりする大規模調査結果も明らかになっています(本連載第26回参照)。私は産業領域においても、個人とその心、そして企業文化にもっと焦点を当てるべきだと思います。その思いで書いたのが、前回紹介した、マネジャーの支援によって働く人の創造性が開花した実例でした。

    3.「線形」から「複雑系」へ

    社会医学の研究で望ましいとされるのは、ある介入を行なった集団と行なわなかった集団の比較です。しかし、フロー状態を提唱した世界的な心理学者のチクセントミハイ氏は、こうした手法をあまり用いませんでした。経験抽出法という方法で、まずフロー状態を経験している人々を実際に探し出しました。そして仮説を立てながら徹底的に聞き取り調査をして個人の在りようや生き方を深掘りし、フロー状態を導く本質的な要素を見いだしていきました。

    非連続で不確実な時代といわれる今、「AをすればBになる」という線形の考え方は通用しなくなってきています。私たちは、個の価値観や企業文化に焦点を当て、どのように人の主観がより生成的、創造的な方向に向かうようアプローチできるかを問われていると思います。

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