経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より
組織の変革が難しい大きな要因は、防衛的な人の価値観や仕組みにある。社員を防衛的な情動から解放し、創造性と挑戦意欲を高めた職場の実例を紹介する。
前回述べた情動の「負の連鎖」はなぜ起こるのか。端的に言うと、不安や恐れなどネガティブ情動の得意分野(特性)が「防衛・回避行動」だからです。研究によると、新たな領域の探索や創造性が得意分野のポジティブ情動と比べて、人はネガティブ情動の影響を2~3倍受けやすいとわかっています。
短期的には相手を操作しやすいため、人は往々にしてネガティブ情動を使って他者を望ましい方向に変えようとします。減点方式の評価制度や、優劣を競わせる仕組みなどです。このような価値観の組織にいる人たちは徐々に防衛・回避的になっていきます。
上司からたびたび叱責された部下は「どうありたいか」ではなく、「叱られないためにどうするか」という防衛・回避行動を取るようになります。これでは新たな物事への挑戦など望むべくもありません。創造性は、「これをやってみたい」というポジティブ情動からしか生まれないのです。
2023年夏、丸井グループのある職場の社員2人が社内表彰制度で「Breakthrough Award DX推進賞」を受賞しました。この賞は、企業価値向上につながる著しい成果を上げた革新的な取り組みや社員を表彰するものです。受賞内容は、マクロ(機能)の構築やローコードを使用したアプリケーション開発による業務改革です。人事部門で何十年も続いてきた煩雑な作業がなくなり、年間400時間もの業務時間削減につながったのです。
この職場はIT(情報技術)の専門職が勤務する部門ではなく、開発者は理系出身の社員でもありません。そもそも当社に理系の社員はあまりいません。その開発者は当初、エクセルも使えなかったそうです。
ここは精神障がいや知的障がいのある人たちが働く職場でした。データ入力など比較的単純な作業をほかの職場から引き受けて行うのが仕事です。その職場では、マネジャーのNさんが中心となり、互いの強みや苦手を共有する対話会を頻繁に設けていました。
この職場の社員たちにインタビューをしたところ、「特に大事なのは、苦手の共有」だと口を揃えて言いました。お互いに苦手を理解することで、長年苦しめられてきた防衛的なネガティブ情動から解放され、心から安心したのです。「自分では当たり前に思っていたことが、ほかの人から言われて強みだと気づいてうれしかった」と話す社員もいました。
そうした職場の雰囲気の中、受賞者のAさんはまず社内公募のDX(デジタルトランスフォーメーション)研修に自ら手を挙げて参加しました。スキルが上がり成長する喜びを感じ、さらに東京大学「メタバース工学部」にも自ら応募し、選抜されました。
これは工学分野における産学連携の教育プログラムです。選抜者には、十数回の講座受講に加えて多くの課題提出が要求されるなど、中途脱落者も多いハードなコースです。しかしAさんは「物事に過度に集中する」という障がいの特性がかえって強みとなって学習を継続することができ、飛躍的に専門スキルを身につけていったのです。
ところが、構築したマクロやアプリの仕組みをほかの職場の社員に話す場面となると、言葉の意味をうまく伝えられず説明するのが難しかったそうです。そこでマネジャーのNさんは、人当たりが良く穏やかな性格の同僚のSさんをAさんと組ませました。
Sさんはインタビューで次のように話してくれました。
「私はITの知識がなかったので最初は内容がわからず『Aさんにお任せします』と言うと、『Sさん、考えるのを放棄しないでください』と言われてしまって(笑)。でも、仲間と共に成長しようという雰囲気の職場なので、自分もDX研修に応募して学び始めました。すると、少しずつAさんが話す内容が理解できるようになっていったのです。」
こうして、Aさんが構築した仕組みをSさんが多くの人にわかるように伝えるというタッグが組まれ、新たな挑戦となった業務改革が実現していきました。
強みを活かして挑戦しているのは、何もこの二人だけではありません。2023年6月の全社調査で挑戦意欲の高い人の割合は、一般社員では52%だった一方、障がい者雇用の社員は62%でした。「強みを活かして挑戦していますか」の問いに、最高評価の「とてもそう思う」と答えた割合は、一般社員の8%に対して23%と、3倍近くも高かったのです。
マネジャーのNさんは日頃のマネジメントについてこう述べています。「チームメンバーは最初から意欲が高かったわけではなく、働くうえでの不安もあると思います。障がい者の人たちは強みと弱みの凸凹があるため、その社員の好きなことや得意なことを一緒に探し、そこを伸ばす点に注力しています。その社員の『好き』や『夢中』が仕事になるよう工夫するのです。業務プロセスでは、毎日のように『ここの部分が丁寧で助かった。ありがとう』というようなポジティブなフィードバックをスタッフが頻繁に行っています。」
メンバー同士の異なる強みを合わせると、非常に高いパフォーマンスが発揮されるといいます。同職場からは実際、その後も新たなサービスが次々に提案・提供されています。
この職場を「特殊な職場だから」ととらえて良いのでしょうか。人の創造性や挑戦意欲は本質的にどのように高まるか、私たちはこの職場から学ぶ必要があると思います。
丸井グループは今、挑戦による失敗をネガティブにとらえるのではなく、ポジティブ情動をより強く誘発して学びに換え、創造性を発揮できる企業文化をめざしています。それには働く人を防衛的な情動から解放し、「この職場でならきっとやれる」という組織効力感を高められるリーダーをどれだけ増やすかにかかっていると私は考えています。
受賞スピーチの最後を、AさんとSさんは笑顔でこう締めくくりました。「この職場のメンバーに感謝しています。これからも自分や会社の成長につながることには、ためらわずに挑戦したいと思っています。」