Well-being
2023.11.6

消える情報、影響力のある情報

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康で生き生きと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルビーイング経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    理解や判断を目的とする伝え方と、心や行動に影響を及ぼす伝え方はまったく異なる。組織のリーダーは、人の行動に影響を与える伝え方を工夫すべきだ。

    「伝わらない」情報

    上司が何か話をしても、翌日には社員は忘れている。よくある話です。「話術の才能」と「話の内容を人の記憶に焼き付ける能力」はほとんど関係がないと、組織行動学が専門の米スタンフォード大学経営大学院のチップ・ハース教授は述べています。「記憶に焼き付く話」とは、記憶に残り、相手の行動を変える影響力のある話を指します。

    ハース教授はスタンフォード大学の学生8人に、米国の犯罪パターンに関する政府機関のデータを与え、主張する立場を分けて1分間スピーチしてもらう実験をしました。スピーチが終わるたびに、説得力はあったか、印象的だったかといった項目で聞き手が発表者を採点します。高得点を取ったのは、話術に長けた学生でした。すなわち弁舌滑らかで、カリスマ性があるような学生です。

    8人全員の発表が終わった後、聞き手は数分間コメディ番組を見て休憩します。そして10分後、「発表の中で覚えている内容を、できるだけ多く書き出して下さい」と指示されます。すると1分間のスピーチを8回聞いただけなのに、書き出せる内容はせいぜい1つか2つ。何を話したのかまったく記憶されていない学生もいました。

    より多くの被検者を対象にこの実験を実施したところ、話し手は「統計データ」を平均2.5個、スピーチに盛り込んでいましたが、「物語(ストーリー)」を用いたのは10人に1人でした。一方で、聞き手の63%がその物語を記憶しており、統計データを思い出した人は5%にすぎませんでした。

    「相手を納得させるために数字を使って話す」手法はよく知られていますが、「相手の記憶に焼き付く、つまり相手の行動に影響を及ぼす話をするために、物語を用いる」有用性については、企業組織では意外なほど認識されていないようです。組織メンバーの行動に影響する伝え方を工夫すべきリーダーにとって、必要な要素だと思います。

    「増殖する」情報

    英国の進化生物学者であるリチャード・ドーキンス氏は、著書「利己的な遺伝子」の中で、「Gene(遺伝子。自己増殖する生物の形質)」に似せた造語「Meme(自己増殖する情報、ミームと読む)」を提示しています。ミームとは、人から人へ伝わったり、行動が模倣されて広がったりする考えや情報を指します。

    聖書や仏典など、長い間人々に広がってきた経典の多くは「物語」で書かれています。もしも聖書の中身が全て箇条書きの指示や数字だったとしたら、人々がそれを記憶して語り継ぎ、自分の行動に反映するのは難しいでしょう。何十年も思い出さなくても、「赤ずきんちゃん」の話に出てくる動物はトラかオオカミかと聞かれて、間違える人はほとんどいません。人々の記憶に残って広がるのは、物語なのです。組織のリーダーは物語の力を知り、望ましい方向にもっと活用すべきだと思います。

    調和に導く物語の力

    2021年度、丸井グループの「Well-being推進プロジェクト」の社員チームは、あるワークショップを独自に開発しました。当時入社2年目のプロジェクトメンバーが、「僕は自分の価値観と会社のミッションが重なったから、丸井グループへの入社を決めたんです。僕はWell-beingの申し子です」と話したことが、ワークショップを開発する一つのきっかけとなりました。

    ワークショップは、
    (1)幼少期からの体験をひも解きながら自分の大切な価値観を言語化
    (2)それと丸井グループのミッションとの重なり合いを自分の言葉で表現
    (3)社員同士で語り合う
    という流れで進めます。進行役のファシリテーター(「伝道師」と呼ぶ)も、希望した社員が担当します。

    参加したある社員は、雑貨店と自宅を兼ねた家に生まれ、両親がいつも地域の人と親しく話すのを見て育ちました。生い立ちを人に語ることを通じて、「私も両親のように、仕事を通じて地域の人に喜んでもらいたい。なぜ自分がこの会社に入ったのか、心の奥底にある願いに初めて気づきました」と話しました。

    このように、自分自身を含む形で語られる物語を「ナラティブ」と呼びます。なぜ私は今、この会社で仕事をしているのか。日常では当たり前となっている前提を、ナラティブな対話をしながら探求することを通じて、仕事の意味感が高まります。

    トライアルで約200人の社員にワークショップを実施したところ、参加した群は1カ月後に「自分の仕事を重要だと感じられる」人の割合が20ポイント向上し、対照群の7ポイントを大きく上回りました(下の図)。ナラティブな語り合いにより、自分自身の価値観と仕事とを無理なく調和させるマインドセットを得たのだと思います。

    ■「ビーイング・ワークショップ」の効果

    1106esg01.jpgワークショップの参加群は対照群に比べて、自分の仕事を重要と感じる割合が向上した。ワークショップの開発とトライアルの実践・効果検証も、手挙げ方式による全社Well-being推進プロジェクトの社員チームが実施した

    このワークショップは、その人らしく在る(being:ビーイング)という意味を込めて、「ビーイング・ワークショップ」と名付けられました。2022年度下半期から手挙げ方式で参加者を募ったところ、毎月、80人の枠に対して2倍を超える応募が続く、人気のワークショップとなっています。自らワークショップの「伝道師」を申し出る社員も、開始当初は5人だったのが18人に増えました。

    ナラティブは、対話型組織開発と呼ばれる組織変革手法の重要な要素でもあります。組織のリーダーがナラティブに語り、メンバーのナラティブの理解に努めて対話すると、企業のビジョンやミッションと調和した組織が創られていきます。