経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康で生き生きと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルビーイング経営とは何か。
産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。
出典:「日経ESG」2022年4月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より
企業のビジネスモデルは、労働集約型から知識創造型への移行が進んでいます。人の力は、企業経営にとってますます大切になっています。そのわりに、人間の行動力が発揮される仕組みについては、あまり考慮されていないように思われます。今回からシリーズで、人の行動力の源泉である「情動」を掘り下げ、組織への生かし方を考察していきます。
想像してみて下さい。3万年前、あなたは狩猟採集で森の中を歩いています。カサっと音がして振り向くと、10m程先に大きなトラの2つの目がこちらを向き、狙いを定めています。思わず、凍り付きます(すくみ反応)。心臓はバクバク鼓動し、呼吸も早くなります。なぜでしょうか。
全身に血液と酸素を送って、逃げるにせよ戦うにせよ、生き抜く行動を取るためです。特に脳と筋肉の血流が増します。感覚を研ぎ澄まし、生存するための行動を取る態勢に、全身が瞬時にセッティングされるのです。逆に、こんな時に悠長に3時間前に食べた木の実を消化している場合ではないので、胃や腸の血流は落ちます。この一連の全身反応は、無意識かつ自動的に生じます。生存に向けて無意識のうちに全身が調整される。こうした反応を「情動反応」と呼びます。
情動は、英語で言うと「emotion」。「motion」は「動き」を指します。「e-」には「外へ」という意味があり、e-motionは「外に動きを出させるもの」。情動とはつまり、行動を起こさせるものということです。
世界的な生物学者のE・O・ウィルソン氏は、こう述べています。「情動とは、ある危険から遠ざかり、特定の利益になるものに近づくために、脳や身体全体を調整し、調和した行動を起こさせる生き残りのメカニズムである」。生物の長い進化の歴史の中で、こうした反応が磨かれた種が生き残り、今の人類に至ると考えられます。
ところで、現代の私たちは、突然トラに襲われる状況に陥ることはほとんどないでしょう。働く人にとってのストレッサー(ストレスを与えるもの)とは何でしょうか。
もし、職場の上司が"トラ"だったら? 本物のトラと向き合う時間は数秒、長くても数分でしょう。しかし上司とは、毎日のように少なくとも数時間会い、その関係は場合によって何年も続きます。上司と向き合うたびに心臓はバクバク、呼吸は速くなり、胃の血流は落ちます。そのうち胃潰瘍になることもあります。自律神経失調です。
ストレスに対する心身の反応は元来、生物の生存にとって不可欠な情動の反応ですが、長期間続くと消耗してしまうのです。
情動反応は、(1)心拍や呼吸などの身体反応、(2)感情や思考、(3)実際の行動─の主に3つに影響を与えると整理できます(下の図)。興味深いのは、情動がもたらす影響のみならず、これらの要素が相互に影響し合っていることです。
■「情動」の3つの要素
情動は、「感情・思考」、「身体(自律神経やホルモン)」、「行動(動きや姿勢)」の主に3つに影響を与える。
これらの要素は相互に影響し合っている
(出所:『エモーショナル・ブレイン』(ジョセフ・ルドゥー著)を基に産業医のグループが作成)
それが分かるヘッドフォンの実験を紹介しましょう。「ヘッドフォンの装着テスト」という名目で、被検者の大学生の3分の1には、首をタテに振りながら音声を聞いてもらいます。3分の1は、首をヨコに振りながら聞きます。残り3分の1は対象群として、頭を動かさずに聞いてもらいます。ヘッドフォンには音楽のほか、「大学の授業料を現状の587ドルから750ドルに上げるべきと主張する論説」を流しました。
そして実験終了後、被検者たちに「ところで、大学の妥当な授業料はいくらだと思いますか」と問いました。すると、首をタテに振り続けた群の回答は平均646ドルで、額を上げるべきとする論説に「賛成」しました。首をヨコに振った群は平均476ドルで「反対」、対象群は582ドルでほぼ現状通りでした。
首をタテに振る、つまり肯定してうなずく体の動きをし続けたことが、無意識のうちに「賛成」する思考に影響したと考察されています。被検者たちは「そんなことはない、自分はこういう意見なのだ」などと否定したそうですが、こうした実験結果は枚挙にいとまがありません。私たちの行動や思考は、無意識の情動の影響を強力に受けているのです。
元プロテニス選手の松岡 修造氏が、「ミスした時ほど胸を張れ」という趣旨の指導をするのはよく知られています。失敗すると人はうつむきがちになりますが、その姿勢(動き)がネガティブな情動を喚起してしまうため、あえて逆の動きをしてそれを防ぐと同時に、前向きな情動の喚起を図るのです。東京五輪で卓球の石川 佳純選手が、ミスするたびに「大丈夫。オーケー」とつぶやいてうなずく姿を見られた方もいるのではないでしょうか。
スポーツ選手は厳しい状況下でのメンタルセッティングに、情動の仕組みを上手に利用しています。「上を向いて歩こう」は、単なる慰め言葉ではないのです。
2016年以降、私は丸井グループの健康推進部(現・ウェルビーイング推進部)長として、全社から毎年約50人を公募してWell-being(ウェルビーイング)を高める活動をする1期1年間のプロジェクトを、5年間にわたって主催してきました。
プロジェクトの運営段階において、最も注意して見ているのは、「皆の情動は今、どのような状態にあるか」です。なぜなら、それが人の行動力の源泉となるからです。「手挙げ式」で集まった意欲的なメンバーといっても、何となくやる気が落ちたり、行き詰まったりする時期が必ずあるものです。そうした時にいかに前向きな情動を喚起できるかが、組織活動の成否すら左右するといっても過言ではないように思います。
米広告代理店のCEO(最高経営責任者)などを務めたケビン・ロバーツ氏は、こう言っています。
"Emotions lead to action, reason leads to conclusion", This is what generates meeting after meeting where nothing happens. When emotion changes the air, then something gets done.(情動は行動を誘発する。理由(論理的思考)は結論を導く。だから、いくら会議で議論をしても何も起こらない。しかし、ひとたび人々の情動が空気を変えれば、何かが起こる)
それでは、どうすれば人の情動を喚起できるのでしょうか。次回、その方法について考察します。
#丸井グループ 取締役 CWO 兼 産業医でもある小島玲子の日経ESG連載企画!
— この指とーまれ! │ 丸井グループ (@maruigroup) January 10, 2023
人の行動力の源泉「情動」
人間の身体・感情・行動は「情動」の影響を受けている?「情動」が動かされるとどのような変化があるのか、事例から紐解きます#ウェルビーイング #多様性https://t.co/nDha2KY6FA