経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。 「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2021年7月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より
Well-being(ウェルビーイング)とは、16世紀のイタリア語「benessere(ベネッセレ)」が始源で、「よく在る」「よく居る」という状態を表す概念です。「しあわせ」と訳されることもあります。
近年、Well-beingが注目される背景には、物質的にも経済的にも豊かになっているのに、多くの人が生きづらさを感じている現状があります。経済社会のあり方や地球との付き合い方を再考し、人々が実感としての豊かさやしあわせを感じられる、調和した社会を創ることが求められているのだと思います。
人はさまざまなことにしあわせを感じるため、こうした概念を聞くと、何かとらえどころのないものと感じる方も多いかもしれません。私たち医師のグループは、人のしあわせ、Well-beingの要素を、脳の機能部位に基づいて分類しています(下図)。生命にとって根源的な機能から高次の機能へと、便宜的に①~⑤に分けています。この図でとらえると、さまざまなしあわせの要素を、脳の機能部位と照らして整理することができます。
例えば、「お腹いっぱい食べたときのしあわせ」は①に該当します。視床下部を中心とした、食べる、寝る、生殖行為など、生物としての根源的な欲望にかかわる部位です。「行動に没頭するしあわせ」は④で、おもに大脳が関係しています。「目的や意味を感じることのしあわせ」は⑤で、おもに脳の前頭葉が関係しています。
「ポジティブ心理学の父」と呼ばれる世界的な心理学者マーティン・セリグマン博士は、この①、④、⑤に関係する3つのしあわせと、人生の満足度について解説しています。それぞれを「快適な人生」「喜びのある人生」「意味のある人生」と表現し、この3つの要素の高さは健康と寿命に相関し、仕事の生産性や顧客満足といった多くの仕事の要素にも相関していると言います。
ところが、人生の満足度との相関を調べてみると、「快適さ」はあまり相関せず、「行動に没頭する喜び」が強く相関し、「意味を感じられること」が最も強く相関していると述べています。長期的な人生のしあわせや、自分の人生に対する満足度合いに関係するのは、より高次の脳機能にかかわるしあわせの要素だと言えるでしょう。
■ しあわせ・Well-beingの6つの要素
脳の機能部位に基づき、生命にとって根源的な機能が関係する要素(①)から、より高次の機能に関係する要素(⑤)に向かって、解剖学的な位置関係に合わせて下から番号が振られている。脳の解剖学図を表示すると煩雑になるため割愛している。⑥の「成長・進化・自律」は、①から⑤のすべてに関係するため、縦に記載している。③と④は並列的である。世界的な心理学者のM.チクセントミハイ教授は、①と②は自己防衛を誘発しやすいと述べている
私は医師として、人々がしあわせの各要素を調和させ、それらを高められるよう支援したいと考えています。「U理論」を提唱したオットー・シャーマー氏は、医師の行動をレベル1~4の4段階に分けて、次のように述べています。
レベル1は修理工。単に壊れた部品を修理するように、手術や薬などで健康問題を治す医者です。レベル2はインストラクター。生活習慣、つまり行動パターンの問題点を指摘する医者です。レベル3は内省のコーチ。行動は日々の思考の習慣から生じます。例えば、家族のためだと言って嫌々働き、仕事のせいだと言って家族との時間を取らない人に対し、人生や思考のパターンを内省することを手助けする医者です。
最も高度なレベル4は、新たなものを生み出す支援者。健康は個人を成長させ、内面を育む旅に必要な糧であると考えています。あなたの夢や目的を大事にし、真の自己への旅に乗り出せと促します。その人の健康は何から生じるのかを考え、成長のための行動を支援する医者です。
「U理論」の中で、シャーマー氏はこう問いかけます。「あなたが、将来の医療にこうあってほしいと願うレベルはどこですか」。
私は丸井グループで、2012年から「人の成長会議」に、16年から「ウェルネス経営推進プロジェクト(2021年にWell-being推進プロジェクトに改称)」に携わり、これまで累計1,000人を超える社員と、しあわせの各要素の重要性を共有してきました。
例えば、30代女性のHさんは数年前、長年、地元で勤務していた地方の店舗が閉店することになり、退職するか悩んでいました。しかし、プロジェクトを通じて「自分は働いて人に喜んでもらいたい」という心からの願望を言語化できたことで、勤務を続けることを決めました。
以前の彼女は「仕事はラクな方がよい」と考えていたそうですが、それからは働き方ががらりと変わりました。新しく所属する職場では「子供が教えるSDGs」という企業価値向上にもつながるイベントを、社外機関や職場のメンバーと一緒に工夫を重ねて実行しました。さらにその活動で関わった社外の方から依頼されて近隣大学で講演をするなど、社会に向けて輝きながら活躍しています。
快適を求める思考と行動(図の①と②の段階)から抜け出し、③仲間との協働、④行動への没頭、⑤意味感、⑥成長を実感することで、人生を豊かにしたのだと思います。
私は、次のガンジーの言葉がWell-beingの1つの本質ではないかと考えています。「幸福とは、あなたが考えることと、あなたが言うことと、あなたがすることの調和がとれている状態のことです」。
私はこれからもWell-beingを、将来世代を含めたステークホルダーと共に広げ、調和のとれた社会をつくる一助になれるように取り組んでいきたいと思います。