Well-being
2022.4.19

続・「分断」と「調和」を分けるもの 自己変容を促す仕組み

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「ウェルビーイング」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。 「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2021年9月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より

目次

    困難を疑似体験することを通じて、適応的知性に関わる脳の領域を繰り返し使う。調和を導く能力の発達を促す取り組みの一例を紹介する。

    前回は、分断か調和かを方向付け、組織や社会の発展を左右する人間の「適応的知性」についてお話ししました。適応的知性とは、困難な状況や複雑な変化に対応する能力を指します。

    今回は、この能力の発達について考察します。社会で創造性を発揮したり、分断を調和に導く行動をしたりした人が、どのような子ども時代を送り、適応的知性を発達させる素地をつくったか。まずはその研究を見てみましょう。

    ルールによる思考停止

    ある研究によると一般的な親は子どもに、「何時に寝る」「何時に宿題をする」など、平均で6つのルールを課しているそうです。ところが、創造性の高い子どもの家庭のルールは平均で1つ以下。しかも、特定のルールではなく道徳的価値観に重点を置き、それに基づいて行動するように指導していると、心理学者のテレサ・アマビールは報告しています。

    ほかに、米国の創造性豊かな建築家と、高い技術はあるがそれほど創造的ではない建築家を比較したドナルド・マッキノンの研究があります。

    創造性豊かなグループの親は、子どもに注意をする際にその論理的根拠を説明しており、大人になるにつれて「自分で自分なりのルールをつくり上げなさい」と伝えていました。組織心理学者のアダム・グラントは、こうした理性的な子どもへの接し方は、慣例を打ち破る創造的な人の親によく見られる特徴だと述べています。

    社会学者のサミュエル・オリナーとパール・オリナーは、ユダヤ人が大量虐殺されたさなか、ユダヤ人を救った非ユダヤ人の調査・研究をしました。当時の社会規範を理解したうえで、なおも自分自身の価値基準に従って行動した人と、他の住民とを比較したのです。

    両者の唯一の違いは、子どものころ、親から注意を受ける際に、なぜ注意するのか、その理由を説明されていた点でした。自分の行動が他の人に及ぼす影響を考えるように、いつも親から促されていたとのことです。

    創造性の高い建築家の調査と同じく、ただ社会のルールに盲目的に従って行動するのではなく、「自分の頭で考え」、価値観と行動を「選び取り」、自分の行動の結果を「客観的に評価し」、自己変容を「くり返す」。これが、適応的知性の発達の素地を作っていました。

    ルール(規則)ベースではなく、プリンシプル(原則・理念)ベースで考える訓練がなされていたということだと思います。

    仕組みが適応的知性を高める

    しかし、子ども時代の画一的な教育や規則などが影響し、思考停止に陥ってしまっている人も多くいます。大人になってから、自ら考え行動し、他者の思考を理解したうえで調和に導く能力を高めるには、どうしたらよいのか。具体的な取り組みを紐解きながら考えてみましょう。

    丸井グループは、役員と管理職を対象とした「レジリエンスプログラム」を実施しています。困難の中でも活力高く幸せな人と組織をつくるのが目的です。

    2020年からは、多様な職場のトップ層が共に適応的知性の発達に取り組むチーム活動を取り入れました。具体的には、メンバーが実際に直面した困難な状況を持ち回りで提示し、チーム全員で困難事例を疑似体験しながら互いに議論します。「事例検討会」という仕組み(慣行)で、月1回程のペースで実施しています。

    活動に参加したあるグループ会社の役員は言いました。

    「立場が上がると、色々な意味でだんだん孤独になってきます。それが、各々が今ぶつかっている課題や問題について、これほど率直に話し合える場があるのは、本当に貴重です」

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    丸井グループの「事例検討会」の様子。トップ層が実際に直面した困難な状況を持ち回りで提示する。多様なメンバー(職級は同じ)がそれを疑似体験しながら対話し、本質的な要素に気づき対応力を高めていく。検討会を繰り返すことで、胸襟を開いて課題を話し合う関係性も深まっていく(写真:丸井グループ)

    「痛み+内省=自己変容」

    別のグループ会社の役員はチーム対話の中で、他者の指摘に対して強く反発を感じた場面を振り返り、自分の価値観を変化させる必要があるのではないかと気づきました。

    「心の奥では、その指摘が本質を突いていたから、あれほど反発したのかもしれない」と自己分析し、そのことを「図星アングリー」とユーモアたっぷりに名付けました(ラベリング)。そして常日頃この言葉を意識して自分を戒めながら、自己変容に取り組んでいます。

    この例のように、人は特に感情やプライドに関して痛みがあった時に深く内省することを通じて、自己変容していきます。

    多様な思考や価値観に触れながら、自分の考えを客観的に振り返り(メタ認知)、それを変容させる必要があると気づく。そして、その課題に意識を集中することを繰り返しながら、人は適応的知性を発達させます。「痛み+内省=自己変容」が、適応的知性の発達の本質なのだと思います。

    適応的知性に関わる脳の部位(主に前頭前野皮質)を使って集中することによって、その領域に神経ネットワークの同調が起こります。これを繰り返すことで、既存の脳神経に、新たなネットワークを組み込んでいくのです。

    事例検討会では、自分だけでは経験しきれない頻度で困難を疑似体験します。中でも、事例を出す人は困難に直面した経験をさらけ出す痛みがあるものです。しかし、対話を通じて自己防衛を乗り越え、新たな洞察を得ることで、自分を変容させていけるのです。

    詩人のタゴールはこう言っています。「人間が自分の人生から学び取ることのできる最も重要な教訓は、この世に苦しみがあるということではなく、苦しみを活用するかどうかは我々次第であり、苦しみは喜びに変わるということである」。