経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。 「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。 出典:「日経ESG」2021年11月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より
身体の欠乏状態に耐える断食は、精神的な文化の1つでもある。しかし、脳へのエネルギー供給を怠れば、ここぞという時の判断力は著しく低下する。
日本では、「食事や睡眠を削って一生懸命働くのが立派」と捉える風潮が、いまだに残っているように思います。前回は睡眠について取り上げましたが、今回は食事が適応的知性(変化や困難に対応する能力)に及ぼす影響を見ていきます。
心理学者でノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン博士は、世界的ベストセラーとなった著書「ファスト&スロー」で、次の実験を紹介しています。
イスラエルの刑務所での仮釈放審査は却下が前提で、許可率は平均35%だそうです。しかし8人の判定人の食事休憩「直後」の許可率は65%と、判断が寛容になっていました。一方、次の休憩までの2時間の間に許可率は一貫して下がり、食事休憩「直前」にはほぼ0%となり、判断が厳しくなっていました(下の図)。
■仮釈放審査における食事休憩と許可率の実験結果
仮釈放審査での許可率は、判定人の食事休憩「直後」に高くなり、その後、時間の経過とともに下がっていき、食事休憩「直前」にはほぼ0になっている
(出所:Extraneous factors in judicial decisions Shai Danziger, Jonathan Levav, and Liora Avnaim-Pesso Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 2011)
カーネマン博士は、疲れて空腹になった判定人たちは、申請を却下するという「安易な初期設定」に回帰しがちだと述べています。
血糖値が下がると、脳の最高中枢である前頭葉に供給されるエネルギーが減り、無意識のうちに次の傾向が表れます。
将来を見通して判断する力が落ちる。他者への認知的な共感力が落ちる。創造性が発揮できない。集中できない。イライラして攻撃的な言葉遣いをする。利己的な選択をする。忍耐力が落ち、ギブアップの衝動が起こる。
こうした状態を「自我消耗(EgoDepletion)」と言います。自我消耗に陥ると適応的知性が著しく落ちます。睡眠不足が重なれば自我消耗はさらに悪化します。
プロのテニス選手が試合の合間にバナナを食べたり、将棋のプロ棋士が対戦前に甘いものを食べたりするのを見たことがあるでしょうか。あれは、お腹がすいたから食べているのではありません。重要な局面で極度の緊張状態にある時に、食欲などわきません。最高の力を発揮して「勝つために」食べているのです。プロのアスリートは最上目的を達成するため、決定的な場面では押し込んででも食べるトレーニングを受けています。そして、ここぞという時に食べるのです(下の写真)。
パフォーマンスを上げるために、押し込んででも食べる。写真は、2020年1月31日に開催されたテニス全豪オープン男子シングルス準決勝でのドミニク・ティエム選手(オーストリア)
(写真:AFP/アフロ)
人間は機械ではありません。特にその判断や振る舞いが大きな影響を及ぼす組織のリーダーが、食事を抜いたり、睡眠を削ったりするのは、自ら思考力や判断力を悪化させているようなもので、無責任とさえ思えます。
米航空宇宙局(NASA)では、宇宙飛行士のパフォーマンスを高めるために血糖値をコントロールしています。そこから着想を得て、米グーグルが、仕事で最高のパフォーマンスを発揮できるよう、社員の血糖値をKPI(重要業績評価指標)に設定したことは話題になりました。
丸井グループでも、リーダー層を対象とした「レジリエンスプログラム」で、適応的知性を高める戦略的な食べ方を所属長が学び、実践しています。そして所属長が、社員の創造性や集中力、他者への認知的な共感力を高めるために、プログラムで得た知識を部下に伝えています。
自我消耗を防ぎ、最高のパフォーマンスを発揮するには、血糖値を乱高下させず一定の範囲内(およそ70~140mg/dl)に保つことが必要です。血糖値が低いと自我消耗になりますが、反対に高過ぎると眠気を催したり、糖尿病のリスクが増したりするのは周知の通りです。
食べ方のコツを一言で言うと、「少量分散」です。少なめの3度の食事に加えて、数時間に1度食べます。いわゆるおやつを指す間食とは区別し、食事を補うという意味で「補食」と呼びます。補食によって血糖値を一定の範囲内に保つのです。
補食は1回につき100~150kcalが目安。菓子パン3分の1個位のイメージです。運動をしているわけではないので、少ない量でよいのです。この少量のカロリーがパフォーマンスの質を保ちます。
私は、重要な会議の前には、参加者に小さなおまんじゅうや、ナッツの小袋などを渡すようにしています。参加者が、自我消耗でイライラしたり、思考力が低下したりするのを防ぐためです。血糖値を乱高下させないことを考慮すると、補食としてはナッツや果物など、GI(Glycemic Index:血糖値に及ぼす影響の度合い)値が低い食べ物がよいでしょう。
ただし、各食品による血糖値の反応の仕方には個人差があります。最近では、自分で簡単に血糖値を測れる機器をネット通販で手軽に購入できるようになりました。
私も時々測定していますが、どんな物を食べると血糖値がどう推移するかが分かります。血糖値を一定に保つ生活上の工夫を試すこともできます。バイオフィードバック(生体反応の自己認識)によって、自分の体調を意識的にコントロールできるのでおすすめです。
人の力が企業価値を生む源泉であるならば、プロのアスリートのように、もっと「人の能力が発揮される仕組み」を知って生かすことが必要ではないかと私は思います。
#丸井グループ 取締役 CWO 兼 産業医でもある小島玲子の日経ESG連載企画第12弾!
— この指とーまれ! │ 丸井グループ (@maruigroup) June 9, 2022
「決定的な時こそ、食べる」
集中力の低下を防ぎ、高いパフォーマンスを保つためのポイントは「少量分散」
重要な会議の前に適した捕食とは?#ウェルビーイング #Wellbeinghttps://t.co/vxbWv4cWK3