経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。
「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2022年2月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より
産業医を20年続ける中で、ずっと私が違和感を覚えてきたこと。それは、仕事に意味を感じたり、仕事を通じて成長や学びを得たりしながらも、多くの人が仕事を「苦役」と捉え、それが社会通念となっていることです。
世界的な心理学者チクセントミハイ氏は、仕事と余暇、それぞれの日に人々がフロー状態に入る時間がどのくらいあるか、実態調査を実施しています。ここで言うフローとは、自分の能力を発揮して、創意の喜びや何らかの満足を感じている状態です。
働く時間(この研究では実際に働いていたのは勤務時間の4分の3で、残り4分の1は世間話や個人的な作業をしていた)のうち、55%がフロー状態、19%がアパシー状態でした。アパシーとは、ボンヤリして無関心、受動的、退屈な精神状態を指します。
この割合は業種や職級によっても異なりますが、平均して仕事時間の約半分の間、人々はフロー状態になっていました。これに対して余暇の日は、フローに入る時間はたった18%で、52%がアパシー状態だったのです。
チクセントミハイ氏によれば、人々は気持ちよく働いている時でさえ働いていない時の方が好きで、仕事への動機付けは低く、より多くの余暇を求め続けます。そして、そのことをフロー理論における「仕事の逆説」と呼びました。
人々は直接的な経験の質をほとんど無視して、代わりに「仕事とは苦役であるはずだ」という根強い文化的ステレオタイプに基づく前提を信じています。
チクセントミハイ氏はそのおもな理由として、他者からのやらされ感と、仕事に対する3つの不満(変化と挑戦の欠如、職場での他者との摩擦、高過ぎる負荷)を挙げています。
本連載の第8回で紹介した通り、人のしあわせや喜びの分類では、「行為に没頭するしあわせ(おもに大脳が関係)」と「意味を感じるしあわせ(前頭葉)」や「人間関係のしあわせ(おもに情動脳)」は別です。フロー状態は、「行為に没頭するしあわせ」の最たるものです。仕事は、その瞬間、瞬間を抽出して分析すると、フロー状態の時間が多くあります。行為に没頭するしあわせという観点から見れば、仕事は余暇以上に人に喜びをもたらします。
しかし、例えば人間関係の摩擦や、業務上の利害調整などが自己防衛の意識を強く誘発すると、その経験は全体として避けるべきネガティブなものとして「意味付け」されます。ネガティブな要素はポジティブな要素に比べて2~3倍、情動や記憶に強く影響することが分かっています。
これが積み重なると、仕事は苦役であるという固定観念(スキーマ)が形成されていきます。スキーマとは、過去の経験や外部環境に関する知識の集合によって形成された信念を指します。うつ病や不安神経症の治療では、個人のスキーマを変えることが目標となるケースが多くあります。
人の情動や認知の仕方は伝播するため、「仕事は苦役」という人々の感覚は社会通念となっていきます。このような固定観念が強くなると、仕事への向き合い方がネガティブになり、仕事に集中できずフロー状態にもなりにくい悪循環に陥ってしまいます。
■ 過去の経験は振り返った時の意味付けで記憶される
意味と行為の喜びの波動を表したイメージ図。活動の瞬間、瞬間ではフロー状態に入っていても(行為の喜び)、それを振り返った時の意味付け(意味の喜び、価値系)が、その経験への評価として記憶されていく。行為そのものが阻害されて仕事の喜びが得られない場合もある
発達心理学の父と呼ばれる心理学者ジャン・ピアジェ氏は、「小さいころに能力を伸ばすことを無理に強制されていた場合、20歳を過ぎるあたりで成長がピタリと止まってしまう現象」を報告しています。「ピアジェ効果」として有名です。
学ぶ喜びなど、自身の内面から得られる内発的報酬ではなく、他人からの評価や、宿題をやらないと罰を与えられるといった外発的な要素で誘導され続けると、次第に他者の価値観に振り回されるようになり、主体性が低下します。失敗を学びの材料ではなく避けるべきものと感じるようになり、挑戦もしなくなります。
ハーバード大学教育大学院のカート・フィッシャー教授はこう述べています。「20年間近く外発的に動機付けられた学校教育は、未だに不愉快な記憶の源になっているので、多くの人々は学校を離れると、やれやれと学習を投げ出してしまいます。彼らの注意は長年にわたって教科書や教師によって外から操作されてきたのであり、彼らは卒業を"自由の第一日"と考えてきました。しかし、象徴的能力を諦めた人は、決して真に自由であるとは言えません」。
仕事の逆説でも、これと同じ構造が形成されていると言えるでしょう。特に日本の社会は完璧主義で、恥の意識や失敗へのバッシングも強く、自己防衛を誘発しやすい文化的な傾向があるように思います。
仕事から本来得られるべき喜びを得るためには、自己防衛を誘発せずに内発的報酬を高め、やらされ感ではなく主体性を生かして自分で選択できる構造をつくる必要があります。
丸井グループでは十数年前から、あらゆることで自分の意志を表明して物事を選択する「手挙げの文化」を醸成してきました。重要な会議(中期経営推進会議)への出席や全社プロジェクトへの参画、人事異動、そして昇進・昇格さえも、自ら手を挙げないと何も始まらない仕組みです。主体性を生かす文化はこの10年間でかなり浸透し、手を挙げた社員はグループ全体で87%となりました。
一方、仕事の楽しみや喜びを感じている社員の割合は全体の約6割で、自己防衛を減らして仕事の喜びを高めることは今後の課題と捉えています。
最後に、インドの詩人ラビンドラナート・タゴール氏の言葉を紹介します。
「私は眠り夢を見る、生きることがよろこびだったらと。私は目覚め気づく、生きることは義務だと。私は働く─すると、ごらん。義務はよろこびだった」