Well-being
2024.10.7

情動の「負の連鎖」

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    「こうなりたくない」という防衛的なネガティブ情動では、人は変わらない。
    「こうありたい」と成長モードのポジティブ情動を喚起し続けることが必要だ。

    「人生の悲劇は、人は変わらないということである」と言ったのは、英国の作家アガサ・クリスティーでした。
    医師から「糖尿病が悪化すれば人工透析や足の切断になる」と何度注意されても過食を続け、実際に人工透析に至る人。周囲に何度促されても病院に行かず体調を悪化させる人。私は医師としてこうしたケースを見てきました。

    心臓の手術を受けた患者を追跡調査した海外のある研究によると、彼らには「死ぬかもしれない」という究極の動機があったにもかかわらず、生活習慣を変えることができたのは実に9人に1人だったといいます。ネガティブな情動では、人は中長期的にほとんど変わらないのです。

    ネガティブ情動の悪影響は強力で(詳しくは本連載第20回を参照)、皮肉にも、人や集団が同じ行動をくり返す要因の一つです。上司からパワハラを受けた人が、自分が上司になって部下に同じような行為をする。抑圧された過去を持つ集団が、今度は別の集団を抑圧する。

    経営コンサルタントのスティーブン・コヴィー氏は、「仮にあなたが子どもの頃に両親に虐待されたからといって、あなたも自分の子どもを虐待する必要はない。心理学の研究によると、そうした脚本通りの行動をする確率が極めて高い」と、著書『7つの習慣』の中で述べています。

    情動の「負の連鎖」とでもいうべきこうした悲劇が、往々にして起こるのです。

    流れを変える人になる

    情動の「負の連鎖」を変えるには、どうしたら良いのでしょうか。17世紀オランダの哲学者スピノザは、「感情(アフェクトゥス)は、それよりも強い反対の感情によってのみ、制限したり無効にしたりできる」とべました。

    この言葉について、世界的な神経科学者のアントニオ・ダマシオ氏は、神経科学の知見をふまえて著書(※1)でこう解説しています。

    「我々は、我々を苦しめるネガティブな情動に対しては、理性的で知的な努力がもたらす、それよりもずっと強いポジティブな情動を使ってたたかうべきだと、スピノザは勧めた。彼の考えの中心には、激情の抑制は理性によって生み出される『情動』によって成し遂げられるのであって、純粋な理性のみによってではない、という考えがあった。これは決して成就しやすいことではないが、スピノザは簡単なことにはほとんど価値を見出していなかった」

    負の連鎖を断ち切るためには、たとえそれが難しくとも、ネガティブ情動を超えるほどに、辛抱強くポジティブ情動を喚起し続けることが必要なのです。

    歴史を振り返ると、社会の流れを変えてきた人々はこれを実行していました。例えば1960年代の米国で公民権運動を展開したマーティン・ルーサー・キング牧師は、「黒人の権利を守るために、白人に立ち向かえ」と防衛や敵意というネガティブ情動を使う代わりに、「私には夢がある」と演説しました。

    「私たちはこうありたい」という希望の社会をありありと示し、ポジティブ情動によって人々を導き続けたのです。次ページに演説の一部を紹介します(※2)。

    ※1「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」(アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳/ダイヤモンド社)
    ※2 アメリカンセンターJAPANのウェブサイトに掲載の和訳

    「私には夢がある。(中略)それはいつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく人格そのものによって評価される国に住むという夢である。今日、私には夢がある。私には夢がある。それは邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である」

    なぜ日本は変われないのか

    ビジネスSNS(交流サイト)のリンクトインが2020年に世界22カ国を対象に実施した調査によると、働く人の仕事に対する自信が最も低いのは日本でした。
    また、世界50カ国の18~64歳を対象に実施した調査では、起業を望ましい職業選択と考える人の割合は、中国が79%、米国が68%なのに対して、日本は25%と最も低い水準にあります(グローバル・アントレプレナーシップ・モニターの2019年調査)。

    要因は複数あるにせよ、日本では問題や失敗に対して叱責や罰を与えるなど、ネガティブ情動によって人を変えようとしてきたことが、これらの結果に表れているように思います。防衛的なネガティブ情動が、日本社会の発展を妨げているのではないでしょうか。

    実は丸井グループは、これまで15年以上かけて「防衛モード」のマインドを「成長モード」に変換してきた企業です。2000年代に2度の赤字に陥り、存続すら危うい時期がありました。その時こそ「二度とこうならないために」ではなく、「私たちはこうありたい」とめざす企業文化を示し、成長モードの情動を喚起し続けてきました(下の図)。

    丸井グループが15年以上にわたって、決算説明会やIR(投資家向け広報)デー、中期経営推進会議などさまざまな場面で各ステークホルダーに示し続けてきた図。全社員がこの図を認識している(出所:丸井グループ)

    2007年から「お客さまのお役に立つために進化し続ける、人の成長=企業の成長」という経営理念のもとで、辛抱強く社員を成長モードに導き続けたことが、その後の丸井グループが業績回復を果たした本質的な要因だと私は思います。
    この間に、自ら手を挙げて行動した社員の割合は全体の85%に上り、時価総額は2倍以上となりました。いまだ道半ばとはいえ、めざす企業文化は現実のものとなりつつあります。

    心臓病の患者なら、「死にたくない」ではなく「こういう人生を歩みたい」。虐待された過去を持つ人なら、「虐待はいやだ」ではなく「こういう家族をつくりたい」。こうした成長モードの情動が喚起される時に、人や組織は本質的に変われるのです。

    人間も動物ですが、動物の訓練に「罰」はないのです。

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