経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるウェルネス経営とは何か。 「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」というテーマで、産業医と取締役の2つの顔を持つ丸井グループの小島 玲子が解説します。
出典:「日経ESG」2021年10月号 連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルネス経営のススメ」より
睡眠不足によって免疫力が下がることはよく知られていますが、予防接種の効果も減弱することが複数の研究でわかっています。
例えばB型肝炎の予防接種では、ワクチン接種後1週間の1晩当たりの睡眠時間が6時間未満の場合、血液中の抗体産生が著しく低く、ウイルスに感染すると保護されない確率が7倍になると報告されています。また、大学生を対象に行われたA型肝炎ワクチンの実験では、睡眠をとった群に比べ、予防接種当日に断眠(徹夜)した群は、4週間後の血中抗体濃度が約半分だったと報告されています(※)。
現在、当社でも新型コロナウイルスの職域ワクチン接種が進んでいます。このワクチンの研究はまだ始まったばかりですが、新型コロナの免疫効果も、接種当日や接種後当面の期間の睡眠状態による影響を受けている可能性があります。
組織のリーダーは多忙です。そのため睡眠不足に気を付けてと言われても、「ああ、健康の話ね」と捉える方が多くいます。
長年企業の産業医をしていると、睡眠不足が仕事の能力、ましてや「適応的知性(前回紹介した、変化や困難に対応する能力)」などとは関係がないと思っている方が多いと感じます。適応的知性には脳の前頭葉機能が大きく関係しますが、ここは睡眠不足の影響を最も受けやすい脳の部位なのです。
経済協力開発機構(OECD)加盟国の15~64歳の平均睡眠時間の調査(2018年)によれば、先進7カ国のうち最も睡眠時間が短い国が日本です。労働生産性の国際比較を見ると、先進7カ国で最も時間当たりの生産性が低いのも、やはり日本です。
単純には論じられないものの、国際データからは「睡眠時間の短さ」と「労働生産性の低さ」は無関係ではないと思います。睡眠時間が十分でない状態では、事業の変革など、複雑な状況に対する思考力が落ちるからです。それでは、どのくらいの睡眠時間であれば十分と言えるのでしょうか。
厚生労働省の研究班は、「睡眠障害対処 12の指針」をまとめています。これによると、「睡眠時間は人それぞれ、日中の眠気で困らなければ十分(8時間にこだわらない)、歳をとると必要な睡眠時間は短くなる」とされています。たしかに、睡眠時間にこだわり過ぎて神経質になる必要はありません。
しかしここで注意したいのは、この指針は「睡眠障害の防止」が目的である点です。「適応的知性の向上」が重要な組織のリーダーには、ベストの心掛けが求められます。
※ ロバート・スティックゴールド(べス・イスラエル・ディーコネス医療センター、睡眠・認知センター所長、ハーバード大学医学部准教授)著、別冊日経サイエンスNo.218
米国国立睡眠財団は、内科、外科、睡眠など複数分野の専門家による議論の上、年齢別に推奨される睡眠時間を公表しました(下の図)。これによると、働く人に多い6時間は「許容範囲内」です。組織のリーダーには、ベストの推奨時間とされる7時間は寝てほしいところです。
■年齢別の推奨睡眠時間
出所:米国国立睡眠財団
睡眠不足ではさまざまな機能が落ちますが、実は「比較的保たれる機能」と、「低下しやすい機能」があることがわかっています。睡眠不足でも比較的保たれる機能としては、IQテスト、批判的な思考、運動機能などがあります。
逆に低下しやすい機能は、注意力、創造性、柔軟な思考力、水平思考力(直感的なひらめきやアイデアを生む思考)、共感力などです。自分では機能の低下を実感しにくい能力が多く含まれています。結果として、複雑な状況で柔軟に思考する能力が落ち、古い戦略や考えに固執しがちになってしまいます。
想像してみてください。あなたの子どもが企業に入り、上司がもし睡眠不足だったら、と。その上司はIQは高いけれど創造性が低く、古い考えに固執しています。あなたの子どもに対する共感力も低く、批判的です。「私はいつも睡眠が短いんだから、これで良いんだ」と信じ込んでいます。「お願いだから、しっかり寝てください!」とその上司に言いたくなるのではないでしょうか。
時折、「私はショートスリーパーだから大丈夫」と言う方を見かけます。しかしカリフォルニア大学による近年の研究で、ショートスリーパー(睡眠6時間未満でも活力を保つとされる)には特定の遺伝子に変異があることが報告されました。つまり先天的で、めざしてなれるものではないうえに、こうした人は極めて少数と推測されています。
丸井グループでは、これらの睡眠に関する情報をリーダー層向けのプログラムで伝えています。その場で、ある部長は言いました。「私はずっと4時間睡眠で、たまに長く寝ると頭痛がするので、とてもそんなに寝られません」。その部長に対して、「実はそれは、睡眠不足が長年続く人の典型的な症状です。頭痛は概ね1週間ほどで良くなりますよ」と講師が伝えると、驚いた様子でした。
別の機会に部下から聞いた話では、その部長はロジカルな一方で多少皮肉っぽく、物事を斜めから批判的に捉える傾向がありました。しかし、プログラム期間を通して睡眠を長めにとるようになって半年程たった頃、その部下に聞いてみると、「部長は前より穏やかになって、チームのメンバーが発言しやすくなった」と言うのです。
複数の要因があるかもしれませんが、睡眠の影響は間違いなくあると思われるほど典型的な前後変化であり、印象に残っている実話です。組織のリーダーにとって、十分な睡眠は欠かせない要素なのです。
#丸井グループ 取締役 CWO 兼 産業医でもある小島玲子の日経ESG連載企画第11弾!
— この指とーまれ! │ 丸井グループ (@maruigroup) May 20, 2022
「リーダーにこそ睡眠が必要!?」
睡眠不足でも比較的保たれる能力と落ちやすい能力とは?
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