Well-being
2024.8.13

経営戦略としての企業文化変革

経営に欠かせない要素として「ウェルネス」や「Well-being」が注目されています。不確実性が高まっている世の中で企業が生き抜くためには、心身ともに健康でイキイキと働く社員を増やすことが大切です。社員の病気やケガを予防するだけにとどまらず、創造性を引き出し、生産性を高めるWell-being経営とは何か。 産業医と取締役執行役員の2つの顔を持つ丸井グループの小島玲子氏が解説します。 出典:「日経ESG」連載「『しあわせ』が企業価値を高める ウェルビーイング経営のススメ」より

目次

    創造性の高い企業文化に変革するにはどうしたら良いだろうか。
    「フロー理論」を応用して、働く人の挑戦をうながす企業の取り組みを紹介する。

    丸井グループは10年以上かけて、従来の上意下達の気風から主体性の高い企業文化へ変革してきました。社内プロジェクトへの参画や昇進・昇格などに自ら手を挙げた社員の割合は85%にのぼります。こうした文化を「企業文化1.0」と呼んでいます。この文化が成長を支え、株価はこの10年間で2倍超になりました。

    手挙げ文化の浸透を受け、今後は挑戦と失敗による学びからノウハウを蓄積し、創造性を高めてイノベーションを創出する「企業文化2. 0」への変革をめざします。言い換えると、既存の仕事でフロー状態に入れる文化から、新たなことへの挑戦でフロー状態に入れる文化への進化です。フロー状態とは、主体的に行為に没入し、深い喜びをともなう状態を指します。

    物事に挑戦し、没頭して創造する楽しさを研究したのが、「フロー理論」を提唱した世界的な心理学者のM.チクセントミハイ氏です。同氏の数ある業績の中で有名なのが、ロッククライミングの研究(※)です。

    岩壁の登はんは、ほかのスポーツと違って観衆もなく、クライマー本人のみが何を成し遂げたか、いかに手際よく成し得たかを知っています。身の危険をともない、称賛などのさしたる外発的報酬がないにもかかわらず、なぜクライマーは深い喜びを感じ、フロー状態になるのでしょうか。

    クライマーは、自分の技能水準に適した挑戦水準を事前に選ぶことができます。どの岩場を登るか、登る季節、ルートなど難易度を変える要素が多くあり、毎回自分で能力と挑戦度合いのバランスを取りながら、新鮮な興味を見いだします。そして限定された刺激の場に注意を集中します。「注意を集中するとは、世界を締め出すことです」「何が正しいかについて考えたり行ったりする自分がなくなった時に、正しいことができるのです」と、クライマーたちはインタビューで述べています。

    意識の集中は継続的ではありません。別のクライマーはこう話します。
    「多くは循環的、律動的なものです。次々と現れる岩に取り組んだ後、ザイルの端に達して"確保"(安全確保)の時が来ます。確保が集中の区切りであり、緊張を緩める機会です。クライミングは集中と弛緩の連続で、登はん-確保のサイクルです。(中略)確保の時、集中した意志もまた弛み、拡がり、再び現実世界を取り入れます。その世界は輝いており、新鮮です。それはしばしの間、自分にとって存在外のものであったがゆえに、新たに創出されるのです」。

    フロー状態に入っている瞬間、人は夢中なので行動の意味を考えることはありません。"確保"の時や、頂上に立った時、平地に戻った時に、その行動の解釈や学び、無意識の創造性の意識化、目的意識の強化、人とのつながりの実感が生まれます。確保(弛緩)の質によって、次の登はん(行動)の質も変わるのです。

    (※)研究の詳細は、『楽しみの社会学』( M.チクセントミハイ著、新思索社)を参照

    組織へのフロー実装

    「挑戦と能力のバランス」「登はん-確保のサイクル」など、フロー研究のこうした知見を、丸井グループは企業文化2.0に向けて組織へ実装しようとしています。

    まず、挑戦の促進についてです。下の図は、社員の意識調査の結果を分析したもので、挑戦度合いと技能や知識の活用度合い、ワークエンゲージメント(仕事への熱意や活力)の高さを示しています。ここから、「自分の技能や知識を仕事で使っていたとしても、挑戦度合いが低い人のワークエンゲージメントは低い」傾向が浮き彫りとなり、挑戦の要素がより重要であるとわかりました。

    ■「挑戦」がワークエンゲージメントを高める

    丸井グループで働く社員の意識調査の結果を分析した。技能や知識を活用していたとしても、挑戦度合いが低い人のワークエンゲージメントは低いことがわかる。ワークエンゲージメントは10点満点で表記。(調査は2023年に実施、対象は4447人)(出所:丸井グループ)

    そこで、挑戦をうながすために2023年に導入した行動指標が、「打席数」です。新規事業の立ち上げなどを打席数ととらえて、今後、この数を5000回にする目標を有価証券報告書に明記しました。打席数を増やすため、社員の失敗を皆の前で讃える「FailForward(フェイルフォワード)賞」もあわせて設けました。

    さらに、クライミングで言うところの確保にあたる仕組みをつくろうとしています。具体的には、社員一人ひとりが自身の考える目標にどのくらい近付けたかを上司と部下が共に振り返り、より主体的に取り組めるよう支援する「確保の時間」を設けます。ただし、上司が部下を適切に後押しするためにはトレーニングが必要です。

    そもそも、最初から自分の目標や目的意識(Will)を言葉にできる人ばかりではありません。そこで、「ビーイングワークショップ」を連動して展開しています。これは手挙げ方式で集まったWell-being推進プロジェクトのチームが、自発的に開発したワークショップです。「自分の目的意識を言語化し、仕事と自分の目的意識との重なり合いに気づき、それを仲間と語り合う」内容です。名称には、「誰もが自分らしく在るように(being)」という、メンバーの願いが込められています。

    この2年間で800人を超える社員が手挙げでワークショップに参加しました。効果検証の結果、自分の目的意識を言語化できた人は9割を超えました。今度はこのワークショップを管理職のトレーニングとして応用します。社員自身がつくり上げた、つまり当社の社員にもっとも合った形で目的意識が引き出されるプロセスを管理職が体得し、「確保の時間」の質を高めるのが目的です。

    企業文化が経営の鍵

    多くの企業は事業戦略が先にあり、それを実現する打ち手の一つとして人材施策を講じるという順番で進めるのではないかと思います。しかし、丸井グループは創造性の高い企業文化への変革(人材・組織戦略)を、価値創造の起点ととらえています。

    2023年は有価証券報告書で人的資本の開示が義務化されましたが、企業価値との結び付きが分からずに悩む企業が多いといった記事をよく目にします。企業は取り組み事例を積極的に共有し、人的資本を高め合う必要があるでしょう。人々が仕事を通じて輝くことは、社会全体の活力向上につながるからです。

    最後に、経営学者ピーター・ドラッカー氏の言葉を紹介します。
    「成果そのものは、機会の開拓によってのみ得ることができる。問題解決をはかるよりも、新しい機会に着目して創造せよ」。