イアン・マキューアン(著)、村松 潔(訳)/カズオ・イシグロ(著)、土屋 政雄(訳)
AIの登場する小説を二冊続けて読んでみました。
著者はどちらもイギリス人ですが、二人とも男性で、年齢的にも67歳と73歳と近く、言うまでもなく世界的に著名な大作家です。
鬼才といわれるイアン・マキューアンとノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロです。
二人がたまたま同じ時期に発表したAIを扱った小説を読み比べてみるというのもおもしろそうだと思ったのです。
AIという限りなく人間に近い知能が、ときには人間を凌駕したり、心や感情という点で人間との違いを際立たせたりすることで、私たちに人間の知性や人間という存在について問いかけるのです。
したがって、どのようなAIを登場させるかによって、それが映し出す人間の姿も変わってきます。
『恋するアダム』では、自宅に閉じこもって投資で生計を立てている独身男性のチャーリーが、母親の遺産で最新式のアンドロイドを購入します。
その名はアダム。
リラダンの『未来のイヴ』*1を想起させるネーミングです。
チャーリーは階上に住む女子学生のミランダに恋をしていて、アダムを手に入れることで彼女の気を引こうとします。
ところが、目覚めたアダムは「ミランダが嘘つきである可能性がある」と告発します。
この言葉を鍵にしてミステリーが展開されます。
しかも、それだけでなく、アダムはミランダに恋してしまうのです。
奇妙な三角関係の始まりです。
これだけでも十分におもしろそうなのですが、この小説にはもう一捻りあります。
アンドロイドが登場するといえば近未来が想定されますが、本書の舞台は1982年の英国です。
ということは、近過去を舞台にしたSF小説なのですが、その過去は私たちの知る歴史とは違っていて、フォークランド戦争で大敗を喫し、ジョン・レノンの新曲が流れる英国、つまりパラレルワールドなのです。
そこでは、人工知能の父ともいわれるアラン・チューリングが生きていてAIの権威として活躍しています。
チューリングは本書のもう一人の主人公といっても良い存在です。
こうしたあり得たかもしれないもう一つの歴史は、鏡のようにして現代を映し出します。
同様にアダムも、あり得るかもしれないもう一つの知性のあり方を映し出します。
作中のアラン・チューリングは言います。
「というわけで、つまり、知能は一種類ではないということが明らかになった。」
アダムは「別様の知性」という鏡なのです。
また、アダムは論理的に完璧なだけでなく、倫理的にも人間より完璧な存在です。
それは次のようなアダムの文学観に示されています。
「私が読んだ世界中の文学のほとんどすべてが、さまざまな形の人間の欠陥を描写しています。」
全体的にモノトーンな基調の中で、抑えきれない感情に流され、時に激情にかられるチャーリーやミランダは、アダムという鏡に映し出されてハイコントラストな陰影を浮かび上がらせます。
ところで、
実際に、アダムはチャーリーとミランダが可愛がり、養子に迎えようとしている男の子に嫉妬しているようです。
作中のアラン・チューリングは言います。
「アダムが自分より優れていることを知っている、ある特殊な形の知能がある。(中略)私が言っているのは子供の頭脳のこと。(中略)遊びという考えはアダムたちにはよく理解できない。」
興味深いことに、まさにその子どものAIを主人公にしたのがカズオ・イシグロの『クララとお日さま』です。
ショートヘアで浅黒く、親切そうな目を持つフランス人形のようなクララは、高度なAIを搭載した「人工親友」ロボットです。
クララは最新型のB3型ではなく旧型のB2型ですが、ずば抜けた観察力と学習能力を持ち、高い共感力を備えています。
クララは仲間の人工親友と一緒にお日さまの光が差し込むお店に並べられ、いつもウインドウの外の世界を観察しています。
クララの動力源が太陽光であることとも関係あるようですが、クララは栄養を与えてくれるお日さまに親しみと崇敬の念を抱いています。
ある日ショーウインドウから外を眺めていたクララは、死にかけた物乞いの老人とその犬がお日さまの光で生き返るのを目にします。
このできごとをきっかけに、クララのお日さまへの気持ちは信仰に近いものに高まります。
クララはジョジーという10代前半の少女と惹かれあって、ジョジーの家で暮らすようになります。
ジョジーには幼馴染のリックという男の子の友人がいて、二人には互いに約束した将来の「計画」があるようです。
ジョジーとリックの無邪気で睦まじい心の交流を通じて、クララは愛という概念を学びます。
ですが、リックは「向上処置」を受けていないために大学進学の道が閉ざされていて、
そのことは、二人の将来の「計画」の乗り越えがたい障壁になっているようです。
そんなリックをジョジーの友人たちは蔑みの目で見下し、優越感を隠そうともしません。
どうやら二人を取り囲む世界は、一種の優生思想にもとづく格差社会で、その中で子どもたちも熾烈な競争にさらされているようです。
一方で、ジョジーは「向上処置」を受けた影響からか病弱な体質ですが、その病状はやがて危機的な状況を迎えます。
クララは人工親友としての使命を果たすために献身的にジョジーに尽くしますが、ついに思い掛けない行動に出ます。
お日さまが物乞いの老人とその犬を助けてくれた時のようにジョジーを救ってくれることを願って、自分の身を犠牲にしてまで。
奇跡を起こすためにはそれを信じる人が必要です。
大人たちだけでなく、大人になりつつあるジョジーやリックまでもが過酷な格差社会、競争社会を生き抜くために精一杯な中で、それができるのは子どもしかいません。
クララは誰もが信じる力を喪失してしまった世界で、ジョジーへの献身とお日さまへの信仰を通じて奇跡を起こせるただ一人の子どもだったのです。
もちろんクララの起こした奇跡に気づく人はいません。
ジョジーのお母さんも、リックもジョジーすらも気がつきません。
そして、やがて別れの時がきます。
クララが映し出して見せたものは何だったのでしょうか。
お日さまを向いて暖かい光を全身で受け止めている向日葵のような子どもの姿が心に残ります。
*1 『未来のイヴ』|ヴィリエ・ド・リラダン(著)、渡辺 一夫(訳)|岩波文庫|1938年