ジョナサン・ハスケル(著)、スティアン・ウェストレイク(著)
タイトルを見て読んでみたくなる本とそうでない本とがある。
本書は僕にとっては後者だった。
それなのに読んだのは、佐藤 明さんがすすめてくれたからだ。
佐藤 明さんはバリュークリエイトという会社の共同経営者で、当社の投資調査部長でもある。
彼の特技の一つはバランスシートを肴に酒が飲めることだ。
実際に目黒のイタリア料理屋で、佐藤さんが某運用会社のOさんとワインを飲みながら資本コストについて熱い議論を交わしている場面を目撃したことがある。
僕と友人たちは、お酒が不味くなるといけないので、無視して違う話に花を咲かせていたけれど、二人は資本コストについて話せば話すほどワインがおいしくなるようだった。
そんな佐藤さんなので、無形資産云々というタイトルを見て食指をそそられたのも頷ける。
おかげで僕は本書と出会えた。
本書の原題は直訳すると『資本なき資本主義』である。
明らかにマルクスの『資本』(同じく直訳)やピケティの『21世紀の資本』を意識した意欲的なタイトルなのだが、それが邦題からは伝わってこないのが残念ではある。
その対象とする範囲は経済から投資、会計、ビジネスにいたるまでかなり幅広い。
例えば、現代の経済学を悩ませている「長期停滞」や、21世紀の経済の最大の問題である「格差」についても論じられている。
これまでの経済学がなかなか解明できなかった謎を無形資産という切り口から解明してみせる手さばきは鮮やかで、まさに快刀乱麻といった感がある。
また、公共政策やインフラについての考察も興味深い。
会計学の観点からは、『会計の再生』の続編として読むこともできる。
このように、読みどころ満載なのだが、中でも僕が特に興味を惹かれた二つのキーワードを通じて本書の魅力を紹介してみたい。
オープンイノベーションは、一般的に自社のリソースだけを用いてイノベーションを創出するクローズドな手法に対して、自社のリソースをある程度開放しつつ他社との協業を通じてイノベーションを創出しようとするオープンな手法のことを指すと思われる。
これに対して、無形資産から見たオープンイノベーションは、無形資産の特徴であるスピルオーバーとシナジーの組み合わせで定義される。
スピルオーバーは「あふれ出る」という意味で、アイデア、新デザイン、新しいビジネスのまとめ方や、商品マーケティングの方法などの無形資産がそれを考え出した人や企業を超えてあふれ出ようとする性質を示す。
言い換えると、ほかの人に真似されるのを防ぐのが難しいということ。
もちろん特許などの手段で、これを自社に囲い込もうと努力することはできるが、完全に独占することは不可能である。
一方で、無形資産はシナジーという特徴を持つ。
これは、無形資産同士を組み合わせることによって価値が高まるということ。
おもしろいのは、スピルオーバーとシナジーが、正反対の方向を向いていることである。
無形資産はスピルオーバーするため、企業は投資の成果を隠したり、特許をとって独占したりしようとする。
抱え込みの誘惑である。
ところが、もし自分のアイデアをほかのアイデアと組み合わせた方が価値が高まるのなら、できるだけ多くのアイデアに触れさせようというインセンティブが生じる。
オープン性への誘惑である。
自社で開発した無形資産を抱え込もうとしてもスピルオーバーが避けられないのであれば、守るよりもむしろこれをオープンにしてより多くのアイデアに触れさせ、シナジーによって価値を高めてしまおう、という戦略である。
従来は、イノベーションは自社で創出すべきものであり、それが利益の源泉になると考えられてきた。
しかし、他社との協業を通じて創出されるイノベーションも内製されたイノベーションと同様の、あるいはそれ以上の利益を生み出すことがあり得る。
この考え方をさらに進めると、他社の無形資産からのスピルオーバーを惹きつけられるようになることでより多くのイノベーションを創出し、より大きな利益を実現するという戦略があり得る。
実際にこのことを地域として実践し、大成功しているのがシリコンバレーである。
また、これを投資の分野で実践しているのがベンチャー・キャピタルである。
だとすれば、事業会社もこの戦略を導入したら良いのではないか、という発想があって当然で、それが昨今のオープンイノベーション・ブームだという。
ところで、事業会社のオープンイノベーション、特に大企業の手がけるオープンイノベーションはあまり上手くいっていない、という意見もあるようだが、これはオープンイノベーションが間違っているというよりは、むしろ大企業がこれまで工業化社会への最適化を通じて培ってきた上意下達、指示・命令による軍隊型の企業文化が、対話を基本とするオープンイノベーションの自由な文化とミスマッチを起こしているからではないかと思われる。
その証拠に、創業者の率いる新興の企業は当たり前のようにオープンイノベーションを実践することで成長している。
したがって、大企業がオープンイノベーションに成功するためには、他社のスピルオーバーを惹きつけられるような魅力ある会社になるとともに、オープンで対話しやすい、フラットな企業文化に変革することが必須であると考えられる。
「距離の死」についても触れておきたい。
「距離の死」という言葉は、1998年から2000年にかけてのITバブルの時代に流行した言葉で、インターネットの発展によって将来的に空間や場所の制約がなくなってしまうことを予言していた。
2001年にITバブルがはじけたことで、多くのIT企業が倒産するとともに、それまで語られていた未来の夢も破れて、その一つであった「距離の死」という言葉も忘れ去られてしまった。
なので、この言葉を目にするのは久しぶりだ。
その意味では、懐かしさを感じるのだが、一方では、それだけでなく何かハッとするもの、長い間忘れていた大事なことを呼び覚まされるような感覚がある。
その感覚とは何だろうか。
最近、なぜだかITバブルのころのことを思い出すことが増えている。
インターネットがまだ若くて、未来についての夢が熱く語られていた時代。
当時のインターネットの夢は「個人のエンパワーメント」だった。
しかし、その後の時代は完全に逆行した。
個人情報は巨大IT企業に吸い上げられ、人は行動や考え方まで左右されている。
巨大IT企業への富の集中は経済格差の拡大にもつながっている。
インターネットの夢は破れた...
と、思われていたのだが、このところ新しい動きが台頭してきている。
例えば、ダイレクト・トゥー・コンシューマー(D2C)。
プラットフォーマーとして市場を独占しつつある巨大ECに対して個人の思いを乗せたブランドが、それに共感し、支持する顧客とともに新たな市場を創り出している。
第一幕では、冒頭で予告された夢が破れて期待外れに終わるが、夢を追い求める新たな登場人物たちが第二幕で活躍する。
大きな流れでいうと、今はそのような時期なのかもしれない。
本書の著者たちは「距離の死」について同様の見方をしている。
彼らは「距離の死はキャンセルされたのではなく、延期されただけなのかもしれない」と言っている。
この見方は、コロナ危機の最中にある現状では、より一層説得力を増すように思われる。
有形資産から無形資産へのシフトは、目に見えるものから、見えないものへの変化である。
それは同時に長期的な変化でもある。
この「目に見えるものから見えないものへの長期的な変化」を見極める視座と眼力は、これからの世の中を生き抜いていくうえで欠かせない。
本書は無形資産というテーマを通じてこの能力を鍛えてくれる優れたトレーナーである。